もくじ
認知症患者に真実をどこまで伝えるべきか
― 優しい嘘と医学倫理 ―
いのうえ内科脳神経クリニック
脳神経内科医 井上健
はじめに
認知症の患者さんを診療していると、ご家族からよく次のような相談を受けます。
「母が父のことを何度も聞きます。亡くなったことを毎回説明するべきでしょうか。」
「本当のことを伝えないといけないのでしょうか。」
医療では、患者さんに正確な情報を伝えることが基本です。しかし認知症のケアでは、必ずしもすべての真実をそのまま伝えることが患者さんの幸せにつながるとは限りません。
今回は、認知症医療の中でしばしば議論される
「優しい嘘(therapeutic fibbing)」
という考え方について、神経内科医の視点から少し整理してみたいと思います。
認知症では同じ悲しみを何度も経験する
認知症では、新しい記憶を保つことが難しくなります。
例えば家族が亡くなった場合、患者さんにその事実を伝えると、そのときは深い悲しみを感じます。しかしその記憶が保てないため、しばらくするとまた同じ質問をします。
「主人はどこですか?」
そのたびに「亡くなりました」と説明すると、患者さんは毎回初めて聞いたように悲しみます。
つまり
同じ悲しみを何度も繰り返す
ことになるのです。
これは患者さんにとって非常につらい体験になります。
優しい嘘という考え方
そのため認知症ケアでは、場合によっては
「今日は外出していますよ」
「またあとで会えますよ」
といった答え方をすることがあります。
これは患者さんをだますことが目的ではありません。
目的は
患者さんの心を守ること
です。
このような対応は
therapeutic fibbing(治療的虚偽)
と呼ばれることがあります。
真実よりも大切なもの
認知症ケアでは、しばしば次の問いが生まれます。
「真実を伝えること」と
「患者さんの安心」
どちらが大切でしょうか。
もちろん嘘を勧めているわけではありません。しかし認知症では、真実を繰り返し伝えることが患者さんに苦痛を与える場合があります。
そのため医療者は
-
患者さんの理解力
-
不安の程度
-
状況
を考えながら対応する必要があります。
感情は残る
前回のブログでも書きましたが、認知症では
感情の記憶
が残ります。
そのため患者さんは
-
怒られた
-
悲しかった
-
不安だった
という感情を覚えています。
逆に言えば
-
優しく接してもらった
-
安心した
-
穏やかだった
という感情も残ります。
医療者と家族にできること
認知症ケアで最も大切なのは
安心できる環境
です。
患者さんにとって大切なのは
-
正確な情報
よりも -
安心して過ごせること
である場合があります。
そのため
-
穏やかな声で話す
-
否定しない
-
不安を和らげる
といった対応がとても重要になります。
最後に
認知症の患者さんは、多くの記憶を失っていきます。
しかし
優しさや安心感
は感じ取ることができます。
真実を伝えることが必ずしも最善とは限らない場面もあります。
患者さんが穏やかに過ごせるように、その人にとって何が一番良いのかを考えることが、認知症医療の大切な姿勢だと思います。



